「一緒に行ってもいい?」(親用読み物)読了時間:約7分
「また出かけるの?一緒に行ってもいい?出かけないで。あたしと一緒におうちにいてよ」
10歳のわが子からの愛の言葉。上の子どもたちも、同じようなことを言ったものだ。
赤ちゃんのころは、私が彼らを置いて出かけようとすると大泣きした。もう少し大きくなると、私がどこへ行くにも一緒に連れて行ってとせがんだものだった。
「いい子にしてるから。ぜったい騒がないって、約束する」。
ときどき、子どもたちの要求がうっとうしくなる。どうしてほんのしばらくのあいだ、私以外の人と一緒にお留守番できないのかしら。
べつに楽しい用事で出かけるわけじゃないし、ひとりならさっさと用を済ませて家に帰り、一緒に遊んでやれるのに。
私はきちんと説明して言い聞かせようとした。「でもママと一緒にいたいんだもん」。子どもたちは聞かなかった。
そしてついて来た。どこへでも。食料品店、銀行、図書館、映画。私がどこへ行こうと、子どもたちは私にひっつき、離れようとしなかった。
たいていは気にならなかったが、ひとりの時間が無性にほしくなる日もある。運転中、ラジオをつけると歌が流れてくる。私が好きな歌だ。ボリュームをあげると小さな声が割りこんでくる。
「ママ、『徐行』ってどういう意味?」「いま、どこの町?」「昨日のこと、ママに話したっけ」。その話が終わるころには、歌なんてとっくの昔に終わっている。
レストランで、私が友人の話に耳を傾けているとする。うちの息子と娘が互いにおしゃべりしてくれることを願って。ふたりはちゃんとそうしてくれる。いつも礼儀正しくしようとするのだ。
でも、大事な質問をしなければならないときもあるし、おとなの会話に割りこんできてもやむをえない場合もある。
「ママ、ここのお店、卵サラダにセロリ入ってるかな?」
「バニラミルクシェイクを頼んでもいい?」
「一緒にトイレに行ってくれる?」
そして私は、ひとつの文を最後まで言い終わることのできる時間が、ちゃんと考えごとのできる時間が、一度の食事を中断されずに済ませられる時間が、ほしくてたまらなくなるのだ。
子どもたちが求めていたのは私の注目だ。私の判断と存在を、彼らは心から望んでいた。私は、毎日毎日彼らがやることの観客であり続けた。
彼らのおしゃべりや割りこみにもだんだん慣れていった。子どもの新鮮な観察眼には心が豊かになったものだ。
「どうしてあの人はウェイターって呼ばれるの?待ってるのはこっちなのに」
「どうして化粧室、って書いてあるのかな。みんな着替えをするために入るのに」
子どもたちが成長するにつれて、彼らの質問はだんだんおもしろさが薄れ、うんざりさせられることが多くなった。
10代前半にもなると、毎日要求や文句ばかりが延々繰り返される。
「休みの最後の晩だってみんな出かけてるのに、なんであたしだけだめなの?」
「23時に家にいるやつなんていないよ。ぼくを信用してくれないの?」
こうなると、どうか黙っていてくれないものか、何かほかにやることを、誰かほかに話を聞いてくれる人を見つけてくれないものか、そんな思いがどうしても先に立つ。
なんですごく単純なことまで喧嘩腰にならなきゃいけないのよ?お願いだから、私を放っておいてちょうだい。
いま彼らは、いやというほど、私を放っておいてくれる。
「今日はどうだった?」私はアルバイトから帰ってきた一七歳の息子に尋ねる。
「どこに出かけたの?どんなことをしたの?」
「そのへんでドアの取りつけをした。たいしたことはなかったよ、ママ。仕事しただけ」
仕事しただけ、そんな返事ってある?もっと詳しいことが知りたいのだ。細かいところを話してほしい。
12時間ものあいだ息子が何をしていたのか知りたい。友だちのことを聞きたい。
話をじっくりと聞かせてほしいのに。
「旅行はどうだった、ママ?どんなものを見たの?楽しかった?」。
ほんの数年前、息子はそんなふうに尋ねたものだ。
「夜は何をしたの?外に出かけた?ぼくたちが恋しくなった?」
尽きることのない質問に、私はいつも答えた。いつも詳しく話を聞かせてやった。
「今夜もまた出かけるの?」私は気がつくとそう言っている。
「少しは家にいられない?あなた、あと三週間でカレッジに行っちゃうんだもの、ママは寂しくてたまらないわ」
こんなことになるなんて、どうして誰も言ってくれなかったのだろう。
何もかも逆になってしまった。いまでは私のほうがこう言ってつきまとっている。
「寂しいわ」「いつ帰ってくるの?」カレンダーに息子のアルバイトが休みの日のしるしをつけて。
朝、仕事に行く娘を車で送るとき、娘はラジオから好きな曲が流れてくるとボリュームをあげる。私はおしゃべりしないほうがいいとわかっている。
娘は音楽に没頭し、私の話なんて聞きたがらない。私は理解を示してやる。
だけど、その理解の下には、ひとつの感情が、目が覚めるような思いがある――何年か前、娘や息子はこんな気持ちでいたのだ。
歌や、遊びや、活動や、人など、そんな何かがやって来て、自分たちからママを連れ去ってしまうのではないかという恐れ。
ママはあたしよりこの歌のほうが好きなはずはない――子どもは思う。ママはぼくがいなくて楽しいはずはない。
だから、子どもは文句を言い、でしゃばってくる。あたしはここよ。あたしを見て。
私はここよ。私を見て。こんないい年をしたおとなが、そう言いたがっている。でも、もちろん言いはしない。
10歳の娘は、自分がいることのできないどこかに私がいると、ぷっとむくれるけれど、私は多少は理解を示すようになった。
あれだけの年月を過ごして、なぜ子どもたちが置いていかれると泣くのか、私はようやくわかりはじめている。
『こころのチキンスープ16』ダイヤモンド社
(子供用に一部改変)
Free-PhotosによるPixabayからの画像