「アンリ・デュナン」(中学生以上)読了時間:約4分
生きる目的をもっている者は、どうにか困難を耐え忍ぶことができる。
三〇歳のアンリ・デュナンは、スイスきっての裕福な銀行家であり事業家であった。
もしあの出来事がなければ、彼はそのまま人生を全うしたはずだった。だがあの運命の日、一八五九年六月二四日を境に、すべてが変わってしまったのである。
デュナンはスイス政府に依頼され、スイスとフランス両国に利益をもたらすはずの取引についてナポレオン三世と話し合うためフランスに向かった。
しかし、ナポレオンはパリを離れ、オーストリア戦に備えて遠征していた。
何とか戦闘が始まる前にナポレオンに謁見しようと、デュナンはかの地へ急いだ。しかし、ときすでに遅かった。
馬車が丘のてっぺんまで来たとき、眼下ではちょうど戦いが始まろうとしていた。
突然トランペットが鳴り渡ったかと思うと、銃声がとどろき、大砲が炸裂した。両軍の騎兵隊が突撃し、入り交じって戦い始めた。
デュナンはその場に座り込み、あたかも劇場のボックスシートから観劇するかのように、土埃が舞い上がるのを目にし、負傷者や死にゆく人々の叫び声を耳にした。
目の前に繰り広げられる惨劇を、固唾を呑んで眺め続けたのである。
しかし、真の恐怖はそのあとにやってきた。戦いが終わってからその小さな町に入ると、民家もその他の建物も、軒並み瀕死の人、負傷者そして死体でいっぱいだったからだ。
デュナンは、苦しんでいる人々を見過ごすことはできなかった。そのまま三日間その町に残り、できるかぎりの手助けをした。
このときデュナンは、生まれ変わったのである。
戦争は野蛮な行為であり、世界中が戦争を止めなくてはいけない!
戦争は、国家間の主義主張の違いを調停する手段にはならない。
そして何より、災害や政変の混乱に苦しんでいる人々を救うための国際機関を作ることが急務である、と考えた。
アンリ・デュナンはスイスに戻り、それからの数年を平和運動のためにヨーロッパ中をかけずり回って過ごした。
その結果、事業の方は次第に傾き始め、ついには破産に追い込まれた。それでも、デュナンは運動をやめなかった。
第一回ジュネーブ会議で、彼は戦争を激しく非難する演説をした。その結果、最初の反戦法案がこの会議で可決されたのである。
この動きは、のちに国際連盟、そして国際連合を生み出すことへとつながっていく。
一九〇一年、アンリ・デュナンはノーベル平和賞の第一回目の受賞者となった。
文無しで、あばら屋に住んでいたにもかかわらず、彼は受け取ったすべてを自分が設立した国際機関に捧げた。
そして一九一〇年、世間から忘れられひっそりと死んでいった。しかし彼の墓に、記念碑は必要ない。
彼が生みの親となった国際機関を象徴する旗が、今では誰にでも知られるようになったからだ。
彼は、スイス国旗の配色を逆にして、白地に赤い十文字を描いた旗を作ったのだ。
そう、彼の永遠の記念碑となったその国際機関とは、国際赤十字社のことである。
『ビッツ・アンド・ピーセズ』より抜粋
『こころのチキンスープ8』ダイヤモンド社
OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像