いい話を、子どもたちに!【いい話を集めたブログ】

いい話をたくさん子どたちに聞かせたいと思い、古今東西からいっぱい集めました。寝る前にスマホで読み聞かせできます。大人の気分転換にもどうぞ。

「世界一のパパ」(読了時間:約8分)

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私が生まれたとき、父はすでに五十歳だった。父は、当時としては珍しいミスター・ママだった。つまり、母の代わりにいつも家にいてくれた。私は幼かったし、父親が家にいる子は仲間うちで私だけだったので、とてもラッキーだと思っていた。

 

小学校のころ、父は私のためにいろいろなことをしてくれた。バス停が遠くて困っていたら、スクールバスの運転手にかけあってくれた。おかげで、バスは家のまえに止まるようになった。

 

お昼どきには、家に帰ってくる私のために、昼食を作って待っていてくれた。たいていピーナッツ・バターとゼリーのサンドイッチだったが、四季おりおりの形や工夫がこらしてあった。

 

私のお気に入りは、クリスマスのサンドイッチだった。ツリーの形に切ったサンドイッチに、葉っぱを思わせるグリーンの砂糖がふりかけてあった。

 

すこし大きくなって、自立心が芽生えてくると、そういう子どもっぽい”愛情表現がてれくさくなった。でも、父はやめようとはしなかった。

 

高校生になると、昼食は学校でとることになったので、私はお弁当をもって行き始めた。すると、父は早めに起きてお弁当を作ってくれるのだった。どんなお弁当が出てくるものやら、父のアイデアはユニークで、予想がつかないほどだった。

 

お弁当を入れる袋には、父のトレードマークとなった山の絵か、パパとアンジーと書いたハートが描いてあった。

 

袋の中には紙のナプキンが入れてあり、これにもハートの絵か、愛してるよ、と書いてあった。それだけではない。父はこのナプキンにジョークやなぞなぞを書いた。

 

「パパイヤとはいっても、ママイヤとはいわないのはなぜでしょう?」

 

こういう他愛ないジョークや私を愛しているという内容のメッセージに、私は思わずほほ笑んでしまうのだった。

 

そんなお弁当を、私はいつも隠して食べていたのだが、そのうち友だちに見つかってしまった。友だちはナプキンを私から取りあげると、全員にまわしてしまった。私は顔から火が出るほど恥ずかしかった。

 

ところが、翌日になると意外にもみんなが私のナプキンを見たがって寄ってきたのだ。どうやらみんな、自分たちにもこんな風に愛情を示してくれる人がいたらいいのにと思っているようだった。私はそんな父が誇らしくて得意になった。

 

それからずっと高校を卒業するまで、私はナプキンをもらい続けた。当時のナプキンをいまでも大切にしまっている。

 

末っ子の私が大学に入って家を出たとき、このメッセージごっこも終わると思ったが、終わらなかった。私はうれしかったし、友だちも喜んでくれた。

 

毎日父に会えなくなってさびしかったので、放課後はよく電話をかけ、電話代がかさんだ。話の内容などどうでもよかった。父の声さえ聞ければ満足だった。そんな大学一年目に、二人の間でこんなことばのやりとりをするのが習慣になった。

 

私が「さよなら」と言うと、父は決まって「アンジー?」と言う。

「何、パパ?」

「愛しているよ」

「私もよ、パパ」

 

このころから、金曜日になるといつも手紙が届くようになった。受付の職員さんは、手紙が誰から来たものか見なくともわかっていた。差出人は「男の中の男」となっていた。

 

手紙のあて名はたいていクレヨンで書いてあり、一週間分の手紙といっしょに父が描いた絵も入っていた。わが家の犬や猫、マッチ棒みたいに描かれたパパとママ。そのまえの週に帰宅したときの私。

 

友だちと自動車で町中を走りまわり、わが家をピットがわりに拝借したときのようすなど。もちろん、お得意の山の絵や「パパとアンジー」と書いたハートも忘れずに描きそえてあった。

 

郵便物は決まって昼食のまえに配られたから、食堂に行くときには手紙をもっていた。隠しても意味がないとわかっていた。なにしろ、私のルームメイトは高校からの友だちで、父のナプキンのことも知っていたからだ。

 

間もなく、父の手紙を友だちに披露するのが金曜日の決まりごとのようになった。私が手紙を読んで聞かせているかたわらで、絵と封筒が友だちの手から手へと渡った。

 

父は朝四時に起きて、静かな時間に手紙を書いた。金曜日に届くように書けないときでも、一日か二日遅れで必ず届いた。友だちはみな父のことを「世界一のパパ」と呼んだ。実際、そう書いてみんなでサインしたカードを父に送ったこともある。

 

父はみんなに、父親の愛情というものを教えてくれたのだと思う。私の友だちが、自分の子どもにナプキンを送るようになったとしても、ちっとも不思議はない。父は子どもに愛情を表現することの大切さを教えてくれたのだ。

 

大学の四年間を通じて、電話はもちろん、父からの手紙はきちんきちんと届いた。でも、このころすでに父はがんに蝕まれていた。手紙が来ないこともあった。そんなとき、父は病気で苦しんでいるため書けないのだと思った。

 

やがて、家に帰って父に付き添ってあげなければならなくなった。父が重体になり、一緒にいられる時間はもう長くはないことがわかったからだ。

 

あのころは毎日が本当につらかった。きびきびと若々しく動いていた父が、病気のせいですっかり老け込んだのを見るのは切なかった。

 

しまいには、私が誰かもわからなくなって、長年会ってもいない親戚の名で呼んだ。病気のせいだとは知りつつ、私の名前すら思い出せないのかと悲かった。

 

亡くなる二日前、私は父と病室で二人きりだった。手を握りあってテレビを見ていたのだが、私が家へ帰ろうとすると、父が言った。

 「アンジー?」

「何、パパ?」

「愛してるよ」

「私もよ、パパ」

 

アンジー・K・ウォードクーサー

「こころのチキンスープ3」ダイヤモンド社

Karolina GrabowskaによるPixabayからの画像